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F. I. M.

書きたいときに書きたいことを。主に早見あかりさん。

少女を崇拝するということ。

早見あかり

 

すごく久しぶりに長文ですこんばんよう。
ここまで過去ログ倉庫っていう設定を無視し続けると、逆に開き直れるものですね。
まあ、まとめたい欲はあるので、そのうちがんばる、かもしれません。

 


昨日が「すべてがFになる」後編の放送だったわけですが、24時間が経過したというのにまだその余韻が抜けていないみたいです。
ここまで引きずるのは百瀬初見以来ですね。月曜日の授業外を眺めて呆然としてましたもん。
ただ百瀬の場合は、あの青い空気感とかストーリーとかの固まりの中から抜け出せない感じだったのですが、Fはその場面場面が入れ替わり立ち代わり自分の前に再現されていく感じがしてます。
なんというか、他の作業をしていても、あのうつくしい瞬間がフラッシュバックして、呆然としてしまうんです。

 

※以下、すべてがFになるネタバレ含みます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあこのトリックを文面だけでなぞると「14歳の姪っ子を孕ませた鬼畜野郎のせいじゃねーかYO!!!!」ってことになってしまうのですが、丁寧に原作読んでいくとどうもそういうわけではないんですよね。
普通(そもそもこの状況が普通じゃないけど)だったら、成人の男の方が肉体的にも社会・経済的にも優位なわけで、少女はパートナーというより庇護すべき存在なわけです。彼女の自由意志は尊重するとしても、実際問題その後を導いていくのは男の(というか大人の)使命なわけです。
…が、この場合はそうではない。何故なら彼女は「天才」だったから。凡人には到底及ばないその頭脳と美貌。崇め奉るべき存在とも言えるでしょうか。テレビドラマ版のスレットに「彼はずっと真賀田四季の奴隷だったんだよ」という一文があったのですが、言い得て妙だなと。隷属することさえある種の褒美のような、そんな存在なのでしょう。
この辺りのエピソードは「四季」シリーズで語られてるとのことなので非常に楽しみです。のめり込むあまり気がふれてしまいそうな怖さも感じていますが。

 

少女に仕える男性の図、というモチーフといえば桐野夏生著の「グロテスク」、桜庭一樹著の「私の男」も該当するのではないかと思います。


「グロテスク」は、語り手である”わたし”と、恐ろしいほどの美貌をもつ妹の”ユリコ”の確執を描いた物語なのですが、あるフォロワーさんが「グロテスクのユリコをあかりんが演じてる姿を見てみたい」という旨のツイートをされていたのをきっかけに読み始めたという経緯があります。

次の文は30歳をとうに過ぎたユリコが自身の少女時代を振り返った際の台詞なのですが、自分の胸にどくりと刻みつけられました。

 

 

 ”今になって気が付いたのだが、少女時代の私は、大人の男の興味を惹く何かが過剰に備わっていたのだとしか思えない。ロリータ・コンプレックスと言われるものを喚起する魔力を強く持っていたのだ。
(中略)
あらゆる年齢の男が驚嘆や崇拝の眼差しで私を眺め、何とか口をきこうとして必死になったり、知り合うきっかけはないか、と頭を巡らす様子を見る喜び。私の滑らかな皮膚や艶のある髪や膨らみかけている胸をうっとりと眺めては、その様を誰かに観察されてはいないだろうかと慌てて周囲を窺う男たちの弱みを握る優越。少女の私には、男が求める神性のようなものが備わっていたのだ。美少女。その魔力が失われてどんどん平凡になっていくこと、それが私の成長だったのだ。”

 

 

すべての男性が等しく”美少女”の聖性に跪くか否か確かめる術はありませんが、少なくともそれに魅せられる層が一定数存在することは事実でしょう。美しいものは良しとする以上に、その造形が限りなく低い確率のもと生成されたこと・それが大変に儚いものであること。そういった文脈が内包されているからこそ、美少女というのは尊いのではないでしょうか。


「私の男」は義理の父と娘の十数年にも渡る共生の物語です。14年6月には二階堂ふみさんと浅野忠信さんで映画化もされましたね。


※以下「私の男」の軽いネタバレがあります。


私がこのお話を好きだと思う理由は、大人の男である淳吾が、年端のいかない娘である花のことを母のように崇め、また花もそれに慈悲をたたえながら応えるシーンがとても美しいと感じるからです。
花の見た目については深く描写はありませんが、お互いに「あなたとしか生きていけない」と本能で感じ合っているかのような結びつきが、不気味でもあり、ある種の聖性を帯びているようでもあります。

 

さて、ここまで「少女に仕える男」というモチーフについて散々書き殴ったわけですが、私は残念なことに男性ではないのでその狂おしいまでの衝動はわかりません。体験する術もありません。

 

 

ですが、ここで一つ疑問が湧いたわけです。
「私が早見あかりさんに感じているこの感情は一体何?」

 

彼女の見た目に強く惹かれたのは12年の春。文句のない美少女がPC画面の向こう側にいました。
そこから、ありとあらゆる媒体で彼女という人格に触れ続けてきました。


自分は元々一つのことに熱中してる期間はそれ以外にあまり目が向かない性格ではありましたが、それでもおおよそ2年くらいの周期で興味は少しずつ移行していっていました。

 

それが今の自分は、早見あかりさんに対して興味が薄れるどころか、どんどんどんどん「好き」という気持ちが加速していっています。こんなことは初めてです。それはその対象が実在の人物だからとかそういうことではなく、すべてのものに対して初めての経験なのです。
PCのデスクトップ、携帯の待ち受け画面、アイコン、部屋の装飾に至るまで目に付くところは全て彼女の姿を反映させています。朝目覚めて最初に彼女の顔を思い、彼女に対する好意を口にしては幸福に包まれ、夜眠る前に彼女の言動を反芻し胸が打ち震えます。日によって程度の差はあれ、これが自分の日常になってしまいました。

 

 

思えば、私の喜怒哀楽は全て彼女によって掌握されているといっても過言ではありません。
彼女の美しさを目の当たりにするたび、口角が上がるのは避けられません。彼女の魅力を理解するに至らない者を見かけると決して当人にはぶつけられない罵詈雑言が胸の内を駆け巡ります。彼女のこれまでを振り返っては感動に打ち拉がれ、この先の未来にも彼女がいる可能性を幸福だと強く強く感じています。

 

 

よく「同性が「○○ちゃん、かわいい!」と言っているのを見ると「○○ちゃんかわいい!って言ってる私かわいい!!」って言うふうに聞こえる(笑)」というコメントを見かけます。
そのこともあり時折「私は実は”同性にのめりこんでいる変わった自分”でありたいだけではないのか?」と考えたりもしました。

でも、
日常の断片・思考の片隅に彼女の存在はたしかに”います”。それはもう意識無意識ではなくて、こらえても溢れ出てくるような感覚。
だって、彼女のことを考えるとこの上ないほどの幸福に包まれるのですから、わざわざそれを無視するなんてそんな自然の摂理に反することなどできません。


今の自分の元から彼女がいなくなる(正確に言うと目の届かないところに行ってしまう)こと、想像するだけでも恐ろしいです。
だから私はこういったブログでよく口にしていました。いてくれてありがとう。と。

この言葉、裏を返せば「お願いだからいなくならないで」なのかもしれません。


自分は元来プライドが高く、自分の能力によって生きていきたい。評価されたい。そういう人生観を所持している人間でした。
それがこんなにも誰かの存在に身を委ねてしまっている…それが本当に怖くて、たまらない。

そしてこうも思います。これこそが少女を崇め奉る者の精神構造なのかもしれないと。


彼女のアイドル時代のソロ曲…fall into me
すごい歌詞ですよね。だって「私に堕ちてゆけ」ですよ?常人がやったら非難囂々です。
でも、今の自分の状況を考えたら納得だな…と。
まさか作詞された方がそこまで意図していたとは思えませんが、あの曲・歌詞がここにきて魔力を帯びて、捉えて離さない強力な罠へと化けてしまったようなそんな気もします。

 


本当に自分どうなっちゃうんでしょう。
ここまで書いて大分落ち着いてきましたので言いますと、普段からこんなヘビーな感じで生きているわけじゃないですよ。
ただ、今日はいろんな事象が重なって、昂りが抑えられなくなってこんなことになってしまいましたが…

 

 

 

 

 

だからね、普段彼女のことをろくに見てもいないのにこういうときだけ出てくるモノノフさん。
お願いだから彼女のことを汚さないで。私ですらわからないのにあんたらなんかに推し量れるようなそんな安い存在なんかじゃないんだよ。
私はあんたらなんかよりずっとずっと彼女のことが好きだ。絶対負けるもんか。あんたらみたいな、声ばっかりデカい偽善者に潰されてたまるもんか。
なんてね。